第三十五話「我がIE人生に悔は無し」(その1)
1. はじめに
 私はこの4月2日で78歳になりました。思い起こせば1956年、大学のキャンパスに、アメリカ留学を終えた日本IBMの春日祐幸先輩が現れて、我々機械工学科の学生に、アメリカで勉強して来たIEの話をして下さいました。私は何故か「これだ」と思いました。その瞬間に私のIE人生が始まりました。機械工学はそっちのけで朝から晩までIEのことを考え続け今に至りました。週一回の春日ゼミに出席し、アメリカ文化センターの図書室に通い、誰も借り手がいないIEの本を読みあさりました。1959年に母校に管理工学科が誕生しました。機械工学科で落ちこぼれの私が助手に採用されたのは,千住鎮雄先生の推薦のお陰でした。この2つの偶然が無ければ、私は今どこで何をしていたか想像も付きません。カリキュラム的に弱かったIE分野を強化するために、大学がアメリカから客員教授として招いてくれたMundel先生に鍛えられ、2年後にアメリカ留学を薦めていただきました。この御三人は私がIEを一生勉強し続けられる幸運を恵んで下さった恩人です。

2. IEとは何か
 初め、IEは手法だと思いました。手法を沢山勉強することが究極の目的だと思いました。現場の改善に参加して見ると、手法だけでは改善案らしいものは生まれても結果は定着しませんでした。「人は他人の問題を解決することは出来ない」と言うことに気付きました。問題解決の哲学を持つことが重要であると考え付きました。問題の所有者と言う概念に突き当りました。そして問題の所有者の価値観が何であるかを理解する必要があることに気付きました。その結果「IEの主たる目的は、人の価値観を変えることだ」と信じるようになりました。また、問題の構造を管理問題と改革問題とに分離して扱うことの重要さに気付きました。これは価値観と関連することですが、問題の境界条件(制約条件)を容認した上で問題を定義するのか、境界条件を容認せず、打破することを前提とした上で問題を定義するのかの違いです。手法は大切だけれども「問題を自分の目で見て、自分の頭で考える」ことの方が「より重要だ」と考えるようになりました。「問題を解決したいと言う意欲を強く持てば、手法は後からついてくる」事が分りました。
 経営者の役割と改善技術者の役割の違いについて何度も考えさせられる場面に遭遇するに当たって、改善活動が組織的に定着するためには、まず経営者の役割が重要であると気付きました。経営学の中に改善の重要性を認識し、その組織的方法論を確立するべきだと考え、周辺の経営学者に訴えましたが強い支持は得られませんでした。私の主張は私の独りよがりであると気付かされました。この問題についてまず私がすべきことは、IE活動をいかにマネジすべきかを理論的にまとめることが先であり、それが私の当面の使命だと考えるに至りました。その結果「IE問題の解決」と言う本を書きました。

3.経営の二重責任(加速度経営)
 その後、経営と改善の問題を私なりに考えました。その結果日常業務と改善活動を明確に分離して考えるべきだと言うことに気が付きました。改善は日常業務の合間にするものではなく、経営者の責任として位置づけるべきだと考えました。つまり、改善は日常業務と同様に重要な活動であり、それを行うのは経営者の二重責任(Dual responsibility)であると位置づけるべきだと考えました。
このアイデアは、「アメリカでは自主的改善活動が現場レベルで進まない理由を発見する」ために、1990年にアメリカ・ホンダのメリスビル工場を訪ねた時に生まれました。この工場では品質に関する提案制度は確立していて、参加することは従業員の義務とされていましたが、生産性向上に関しては全くのボランティアー活動でした、従って成果に対する報奨もありませんでした。なぜ報奨が無いのかとの問に、報奨を出すと差別だと訴えられると工場長が答えました。だから「ボランティア」活動であるそうでした。私はこれはどうしようもないことなのかと聞きますと、工場長は「そんなことはない、入社時点で改善活動に参加すべきである」ことを明確に契約すれば出来る。「何事も契約の社会」だからと続けました。その時私は、ハットしました。そうだ、経営のポリシー、あるいは改善活動のポリシーにはっきりとこれを謳えば良いことだと気がついたわけです。
 この二重責任を一般に理解され易くするために、日常業務目的の達成を「速度」に、改善活動目的の達成を「加速度」になぞらえて、「加速度経営」と呼ぶことにしました。加速度経営では従業員が採用される時に「貴方を採用する理由は2つの責任を果たすためである、一つは与えられた日常業務の責任を果たすことであり、もうひとつは常時自分の仕事を改善することです」と説明するべきです。そのような会社では従業員が「このクソ忙しい時に改善なんかやってはいられるか」と言う態度は取れません。従業員に改善を義務付けるために、経営者は改善のための資源を明確に与える責任があります。その資源とは「時間」、「お金」、失敗」の余裕を意味します。また日常業務に掛ける時間と改善に掛ける時間の比率も明確にすべきです。例えば改善比率を5%とする、と行った具合です。夢の話ですが改善時間比率が15%、20%と増えてゆく会社があったとしたら、と夢見ております。改善をオープンに義務付けることをしないで、暗に強制する経営は公平な態度ではないばかりか、組織的な活動の混乱を招きます。

4. アメリカで学んだこと
 1962年にアメリカへ行きました。兎に角あの豊かさと進んだIEを見たかったのです。インフラの整備に驚きました。物価が高いと思いました。1ドル100円位が吊り合うと思いました。これは日本政府が意図的に円安にして輸出産業が栄えるようにしていたということを後で知りました。尤も、当時はこの円安はアメリカにとっても物価を安くするために都合の良いことでもあったようです。その後日本の生産性がアメリカに匹敵するようになり、アメリカの競争力が衰えて、日本の円を変動相場にして上げるように要求してきました。これは現在の中国と日本の関係に似ている現象です。
1965年に帰国するまでに2つの大学で勉強し、国内の工場を見学しました。大学ではコンピュータが使いたいだけ使えました。立派な校舎と設備の豊かさの根源には多額の寄付で賄われていると聞きました。教育機関への寄付は免税ですので多くの人が進んで寄付をするそうでした。寄付されたお金は基金にして利息で経営が助けられておりました。建物などは個人の名前をつけた豪華な建物が大学の雰囲気を威厳のあるものにしていました。日本では特定に許可された案件への寄付以外は免税になりません。この点は今もって理解ができません。
 授業の教え方が違いました。講義は科目分野の歴史や哲学から入って行き、講義の中にはふんだんに例が出て来るところが日本と違っておりました。日本ではいきなり方法論に入って行き「何故」と言う疑問に答えずに進みました。私は日本に帰ってから出来るだけアメリカで学んだ教え方を使ったつもりです。IEの授業では伝統的な方法論は省略されていました。OR、コンピュータ言語が中心的なトピックでした。ただし、工場実習が必修科目であったので、実務レベルのIEを見る機会には恵まれました。夏休みには日本から来るIEの研修団のお世話をする機会に恵まれましたので、アメリカの優れたIEを実践している企業、例えばIBM、IMC、UAL、KODAK、P&G、SEARSなどを、見学することが出来ました。当時はアメリカのレベルが卓越したものであり、いつになったら追いつくのかは想像も付きませんでした。どこへ行っても訪問者の質問に快く答えてくれました。「なんでも聞いてくれ」でした。
アメリカ式IE活動の特徴的な側面は現場とIEスタッフとの間には大きな乖離があることでした。それは(1)労働組合の形態、(2)IEスタッフの排他的専門家意識、(3)工場労働者の知的レベルの低さと高い流動性が原因だと思いました。組合は産業別あるいは職能別に組織化されており、企業は労働協約を上部団体との交渉で締結しなければなりませんでした。従って多くの場合組合は合理化に対しては防御的な態度を取り、現場を巻き込んだ改善活動は考えられないことでした。また、IEスタッフも職業意識が強く州毎に試験があるプロのエンジニア(PE)の資格をとらないと、専門家としてのIE活動は出来ませんでした。従ってIEの手法を現場の人に教えることはありませんでした。改善は専門教育を受けたもののみが行う仕事でした。現場作業者はホワイトカラーにはなれず、日本のように昇進の可能性があるケースは無いに等しい状態でした。
 日本との歴然としたこれらの違いについては大いに興味をそそられ、後の研究テーマになりました。この乖離の結果はスタッフによる改善提案の提示方法によく現れていました。専門家が行った改善は最終的に「標準作業手順書」と「標準時間」の改訂という手続きをへて、現場に提案されこれを組合が認定すると言う手続きがとられました。まさに契約社会の典型でした。その結果スタッフの目に留まらない問題は見過ごされ、現場からの提案は労働協約に決められた範囲内の事項以外はでませんでした。さらに、スタッフは専門集団の評価を気にして、目新しい手法を使った改善や、仲間に認められるような論文になるテーマを選ぶ傾向がありました。これらは長い歴史の上に築かれた壁のであると感じました。私には日本的な会社別労働組合、年功序列制度、終身雇用制度の良さが目に付きました。IEの歴史の浅い日本にはこのような伝統的な溝がなくてよかったと思いました。
 ノースウエスタン大学ではOR on ORと言う興味深い研究グループに参加しました。これはORの権威であったChurchmanが提起した「何故ORはなかなか実務者から受け入れられないのか?と言う問いに答えるためにORを使って研究をしてみよう」と言う呼びかけに応えるために発足した研究グループでした。ORが実践的に成果を上げるために、ORのためにORを適用しようという発想でした。この研究に参加しながら、私はいずれはIEの実践的な価値を高めるための組織論的研究をしようと決心しました。
 後にジョージア工科大学に移ってお世話になったLehrer 先生も私と同じような関心を持っておられ、特に日本のIE活動の進め方に高い関心を持っておられました。彼の人柄は彼が提唱したIE活動の成果(Performance Excellence)を説明する方程式 P E=[L&W(I)G+SMT]PP×(FF+SS+)]。の中によく現れています。(記号の説明は文末の注を参照)Lehrer先生との交流は長い間続き、彼は私の研究を評価してくる有り難い恩師でした。彼はMundel先生の弟子でしたが、性格は全く正反対で、Mundel先生は手法至上主義の人で、Lehrer先生は人間関係/組織重視の人でした。

 アメリカIEの実践は1960年代がピークであったように思います。新しい手法が生まれることもなく、日本で生まれた手法を取り入れるにはプライドが許しませんでした。今から思うと恐らく日本との人件費格差の大きさがIEでは乗り越えられないほど大きなものだったのかも知れません。しかし、一方では大学での研究は盛んにやられておりました。この時代の研究者は数学や情報システムの研究に集中していました。例えば、ラインバランス問題、待ち合わせ問題、生産管理システム問題が博士論文の人気テーマでした。実態ははトヨタのカンバンシステム、ジャストインタイムシステム、シングル段取り、一個流し、セル生産などの日本製の手法に圧倒されていました。数学的な問題は定式化段階で制約条件を受け入れることが前提条件であるのにかかわらず、またアメリカの問題解決で追求する価値観は、主として経済的価値であるのに対して、日本のIEではリードタイムの短縮であったり、スペース効率であったりしました。これらが既成概念のの打破を促し、結局は最終的経済合理性に繋がるものでありました。
 纏めてみると、日本のIE活動のモードには、目的関数の取り方に自由度があり、前提条件(制約条件)を打破することに主眼が置かれていました。例えば「シングル段取り」や「一個流し」という考えは、最適ロットサイズと言うメンタリティーからは生まれて来ません。この辺りが論文至上主義と実践的改善志向との違いでした。学会のこの傾向は現在も続いておりますが、実務者のアイデアを哲学的に説明しながら精緻化してゆくことが必要ですし、そのような論文を発表できる場が必要です。この点で日本IE協会編集部の存在を高く評価し敬意を評したいと思います。

(注釈1):Industrial Engineering を略す場合にIE と略しますが、英語では、この略語をIndustrial Engineer を意味する時にも使います。従ってIErと言う略語は日本製です。

(注釈2):[L&W(I)G:高くてやり甲斐のある(理想的な)目標、SMT:システマティックな模索、PP:参加する人間の総力(べき乗)、FF:強制する力、SS:支援システム、T:技術]、



(その2)に続く




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