ゲーム感覚
1. コンピュータが生活のゲーム化を可能にした

私がOR(経営科学)を勉強していた1960年頃、モデル(あるいは現象の模型化)という言葉を新しい専門用語としてよく聞きました。ところが、主として数学的な表現に頼ったこれらのモデルは現実の経営問題との間の距離が大きくて実感が沸きませんでした。それどころか、新しさを強調しているだけで、現実に役に立たない学問をしているような気がしてなりませんでした。それどころか、数学的モデルは、基本的な(物理)現象以外は永遠に役にたたないと思っていました。

それからほぼ40年経過した現在では、コンピュータの進歩のお陰でいろいろな社会現象がシミュレーションの対象となり、実用的に役立つようになってきました。設計の世界では有限要素法の考え方なしでは、現象の模型化は出来ないまでにも成っています。スケジューリンング、レイアウト、作業動作、工場内の物流などもバーチャルファクトリーの名のもとに、三次元の映像が画面上に写しだされるようになってきました。

経済的な効果があるために、進歩が極めて著しいのがいわゆるテレビゲームの世界です。それらは娯楽的なインパクトを与えているだけではなく、社会生活上の実用的インパクトを我々に与えてくれます。しかし、モデルがあまりのリアリティーを持って我々に迫ってくるために、現実とファンタジーの世界との区別が付きづらくなってきているのも事実です。

ゲームはルールに従って矛盾無く進行します。ルールの範囲であれば何をしても構いません。結果はコンピュータの中だけで起こります。全てがゲーム感覚で進行します。当然、「非常によい手」が見つかった時には、相手に余裕をあたえずに、間髪を容れずにその手を打ってみたくなる衝動に駆られます。そしてそうするでしょう。困ったことに、あまりにもゲームにのめり込んでしまうと、いつの間にか現実とゲームの差が分からなくなってしまいます。当然「悪いこと」をした時にゲームがペナルティーを与えることは出来ますが、それはあくまでもコンピュータの中に限定されます。

ゲームの中では倫理観は関係がなく、それが余計ゲームの魅力になっている場合もあります。「義理人情浪花節」がゲームの主題になっているなんて言う話は聞いたことがありません。われわれが現実の社会生活を営む場合、自分や組織の行動が「世のため、人のために」なるかどうか、あるいはそれに反するかどうかを考えます。ゲーム感覚が身についてしまうと、この倫理観が麻痺してしまうことがあります。特に若い世代の人々にはその傾向があります。どうしてでしょうか。

2. 社会の発展が感性の社会を変えてしまった

少なくとも私の少年時代には、倫理観を植え付けるような社会の仕掛けがありました。ごく小さな時にお祭りの見せ物の中に「地獄極楽」という見せ物がありました。その絵物語を言葉も分からない子供にも見せました。ただ怖いものを見たと言う記憶が残りました。悪いことをすると来世では報いがあると言うのです。嘘をつくとあの世で閻魔さまが舌を抜くというのです。人を殺せば殺された人が化けて幽霊になって出てくるというのです。

成長するにつれて、行動の規範として、「真善美」という概念を植え付けられました。真実なるものを追求し、善なる行いをし、美しいものを称賛せよ、というのです。そして、それをするために「知情意」を身につけなさい。良く学んで知性を身につけ、人間としての感情を豊にし、意欲を持って行動をする様にと言うわけです。

ところが、このことに異変が起きているのです。「真善美」の「真」が怪しくなっているのです。真なるものとは何であるか、がはっきりしなくなっているのです。昔から真の友情、真の愛国心、真の愛社精神、真の人生目標、真の学問、などと言う言葉で表現された真が客観的に定義しづらいために、何を行動目標に定めるかが分かりづらくなってきました。その代わり「損得」と言う価値観が登場しました。損か得かは分かりやすく、比較の対象が存在します。また、多くの場合損得は経済的な感覚で捉えやすく、客観化できます。つまり、「真善美」がいつの間にか「得善美」になってしまったのです。

さらに、「知情意」も問題です。この順番を人間の成長過程での学習の重要性であると仮定しますと、今の社会では、知性の重要性よりも情の世界を充実するこの方が重要になってきました。人の行動の原動力は、「正しくない」、「可哀想」、「愛しい」、「可愛い」、「許せない」「、悔しい」などの「感情」が先に動いてそれから、「ようし、やってやろう」という「意欲」が沸いてきます。その結果として「どのように考え、どのように行動したらよいのか」を知りたくなります。ここに「知性」の必要性が生まれてくるのです。つまり、「知情意」ではなく「情意知」の順がよいのです。もしも、われわれの教育システムが「知情意」の順を重要視しているのだったら問題です。何よりも社会的に望ましい「情」を育てることが大切です。

3. 社会の発展に付いてゆけない古い教育理念

何故このような事が起こってしまったのかについての私の考えを以下に述べます。それは、ひとえに世の中が変化しているのに、これらの理念が昔のままだからだと思います。「真」という概念は「真ではないもの」に対抗して生まれてきました。封建的な社会においては、貧しい人々が圧倒的に多数を占めておりました。その人達は、少数のお金持ちや権力者に虐げられていて、貧乏な彼らの正義が犯されていました。「そんなはずはない」「そんなことが許されてよいのか」という感情が「本当はこういうものが正しいのだ」として「真のなになに」、という概念が生まれたのだと思います。時代が代わって、そこそこ民主化された社会では、この程度の公憤は相対的にかなり減りました。そうすると、だんだん「真」の概念がはっきりしなくなってきました。むしろ「損得」の方が客観的に定義しやすくなりました。

しかし、損得はどうしても、自己中心性の強い判断基準です。これからの価値基準はよりグローバルなものであるべきです。社会が発展すると自由競争が許される範囲が広がるのではなく、逆に限定されてくるものが増えてくると思います。経済規模が大きくなったり、技術の成果が大きくなると、その影響の及ぶ速度も範囲も大きくなります。良い場合も悪い場合も地球規模から宇宙規模の影響へと範囲が広がります。われわれはこれから、このような状況から発生する、これまでに体験したことがないような、「真でないもの」を出会うことになるでしょう。そこで改めて昔の「こんなはずではない」「正義はどうした」といった「真偽」の問題が新しい対象に対して生まつつあります。損得を越えた「真」の追求が求められています。

「知情意」の順序も同じです。昔、知性は身につけるのが大変であったのに反して、情の世界は家庭内においても社会においても充実していたと考えられます。仏教の教えも徹底していましたし、生き死にの問題や死後の問題も科学的なものと言うよりは宗教的な問題でした。したがって、「情」を意識的に教育しなくても十分に環境が整っておりました。科学技術が進歩し、経済が発展して、知的な内容を重視する教育システムが充実してきました。むしろそれに伴って、一時期「情」を重視することは非科学的であるという思想まで生まれてきました。学校教育が充実すればするほど、子供達の時間が相対的に「知」のために多く費やされ、「知」の前提である「意」のために、また「意」を突き上げる「情」のために費やされなくなりました。

4. 今の内に何とかしないと

子供の教育に関してもう一つ大事なことを申し添えます。「真」は体験的な学習によって会得されます。其れに対して「得」は体験を通さなくても、観念的学習によって効率よく修得可能でます。「情」と「意」は観念的学習では修得不可能であり、「知」は観念的学習でもかなり修得可能であります。「情」の未熟な人間が高度な「知」を持つことがいかに危険であるかを考えると、身震いがします。近年の子供達の中には観念的学習のみで物事を理解する者が増えており、しかもその上、このような子供達が成長すると、バーチャルな社会生活を有利におくれるようななってきています。

この観念的学習と体験的学習の順序と組合せの問題が社会問題の根源的原因になりつつあるように思います。繰り返しますが、今日のように科学技術と経済が発展した社会では、「知情意」ではなく「情意知」の順序で「体験的学習」を重視した教育が望まれます。各種の経済現象のモデル化が進み、コンピュータを上手に扱うことの出来る人間が増えてくると、社会現象をゲーム感覚で扱い、表面的なルールだけに従うことで満足し、倫理観が希薄な人間が増えてきます。そうすると、この社会は後追いでどんどんルールを作ることになり、ルールばかりの社会になってしまいます。その結果として、人間がさらに非情な動物にならなければよいがなと思います。最近流行りの「コンプライアンス」などという言葉も、ルールを守っているかどうかを監視する仕組みを完全なものにしようと言ってるように聞こえます。皆が「世のため、人のため」になることをしていれば、こんな言葉は生まれなかったのではないでしょうか。

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