OR on OR の思い出――OR活動とIE活動の対比による考察――
{オペレーションズ・レサーチ誌Vol.52, No.4, pp.3-7, 2007 掲載}
1.はじめに
私は2000年3月慶応大学管理工学科を定年退職するまで、一貫してIE(Industrial Engineering)に関心を持ち、研究、教育、企業指導を行ってきました。ORは専門外ですが、大学在職中は数多くの数学、統計学、数理経済学の専門家に囲まれて生活していましたので、ORが日本に導入された頃から、ORが研究され活用される様を見聞きしておりました。それどころか、管理工学科発足当時はORとIEは、お互いの欠点を指摘し合いながら反目し合っていましたので、ライバルとしてのORを意識せざるを得ませんでした。

IEはORに比べればはるかに数学的厳密性もなく、研究室で研究できる余地も少なく、殆どの研究は工場の現場においてのフィールドワークでした。大体、IEは約120年前にアメリカで生まれ、その当時は動作時間研究と言う画期的な方法論として華々しく登場し、現場での実践的効果を通してアメリカの経済に多大な貢献をしましたが、その後ニーズの後押しが無く、新しい手法の開発に見るべきものがありませんでした。したがって、IEは実践的価値はあり、教育的価値はありましたが、新進気鋭のORと比べるといささか怪しげな古臭い分野でした。

その結果、いじめるのはORで、「お前なんかドアーのハンドルを右に決めるか左に決めるかみたいなことをしているだけではないか」とやられ、「だからどうした、それが大事なことなんだ」ぐらいしか反撃できずにいました。おまけに、文献を読んでも当時の日本は実践的にもはるかにアメリカに遅れているようでしたので、どのような研究をすればよいのかも判りませんでした。これでは、アメリカに行って来るしかありませんでした。1962年から1965年まで行きました。

行ってみれば、アメリカはOR花盛りでした。「今頃IEなんか勉強してどうするんだ?」と聞かれる有様でした。アメリカの大学では数あるIE学科がなんとか学科名からIEと言う名称を削除しようとしていました。ところが2万人を超す会員を要するアメリカIE学会(Institute of IE)がそれを許しませんでした。その結果、他の名称を付加する学校が増えました。例えばIndustrial & Systems Engineeringと言った具合です。それでは、産業の実態はどうなのかとばかり、アメリカ中の名のあるIE部門を持つ企業を片っ端から見て回りました。IBM, KODAK, UAL, P & G, BOEING などでした。

当時の日本は貧しく、産業もまだまだで、日本政府の科学技術予算がIBM一社の研究開発費と同じでした。この国には永久に追いつかないと思いました。IEの実践面での優位性は桁が違いました。日本ではまだまだやることはあると実感しました。さらに感銘を受けたのはアメリカではIE活動にコンピュータが盛んに導入されていることでした。日本の工場にはプロセスコントロール用のコンピュータが導入されつつあった程度でした。何となくこれが将来、IEとORをつなぐ役を果たすようになるのではないかと感じました。

しかし、アメリカのIE活動を見て気になったことがありました。いわゆる改善活動の範囲が工程単位にとどまっていました。その上、生産現場とIEスタッフの距離があり過ぎることでした。スタッフは事務所から余り出て来ず、現場はスタッフと直接話しをしないようでした。両者の間の知的ギャップの大きさにも絶望感を持ちました。その背後にある大きな流れとして、大きな労使間の距離がありました。日本のように会社単位の組合を見てきた私には、職能単位の組合は馴染めませんでした。IEスタッフが現場のデータを取るのに組合の許可を取らなければなりませんでした。IEスタッフが決めた賃金の基礎となる標準時間に異議を申し立てるために、組合は自分たちのためのIEスタッフを雇っていました。

私はいつの間にか、手法の開発よりもアメリカ社会の価値観に根ざした現場とスタッフの間の人間関係や、責任権限のあり方に興味を持つようになってゆきました。スタッフだけで現場の合理化を進めても、何か重いものを引きずりながら進んでいるように見えました。おまけに、現場の後ろには強大な力を持つ職能別組合が控えているわけです。上記の観察が後に述べるラインとスタッフの関係に関する私の理論開発の動機になりました。

2.ひょんなことから
日本に帰って7年後友人のノースウエスタン大学のラドナー君から連絡があり、研究グループに入らないかとのことでした。1960年代後半になると、あの颯爽と登場したアメリカのORに陰りが見えてきたのです。手法の開発や研究成果が直接の原因ではなく、企業が争って採用したOR部門が、はかばかしい成果を上げていない事実が明らかになったのです。数学が判らないIEグループの人間の中には「それ見ろ、数学で企業の問題が解けるなら苦労はいらないや」と言うものが出てきたぐらいでした。当時、原因として指摘されていた根本的な理由は、ORスタッフが人間関係にうといからだと言うものでした。これはあまりにも表面的な観察でした。このことを心配したチャーチマン、エイコフなどの大御所が、この状況を何とかしなければならないと指摘した著書や論文を発表していました。

さて、その研究会は言うまでも無くOR実践上の困難を克服するための研究でした。研究会の名称はOR on ORというものでした。OR活動のあり方にOR的発想や手法を使って上記の問題を克服しようと言う考えでした。別名OR Square(OR2、これにはOR広場と言う意味もあります)でした。この名称の由来は我々共通の先生のルービンスタインさんが、もっと研究開発のマネジメントを研究すべきことを指摘するためにつけた名称のR&D on R&Dをもじったものでした。研究分野の公式名称はImplementation Study(実施研究)と呼ばれていました。その頃日本でも先進的な多くの企業がORグループを確立し出したところでした。私はIE活動の発展のための組織問題に興味がありましたので、経営の合理化のためのスタッフ活動としてはORもIEも違いは無かろうと考えて、参加することにしました。しかし、遠隔の地でもあり日米間の実践レベルの違いもあることから、オブザーバーの資格で参加することにしました。

正直に言いますが、その時NSF(National Science Foundation)からもらった5千ドルの研究費が一番有難かったのを覚えています。しかも領収書も無しにでした。早速、大学院生だった根本忠明さん(現日本大学)と三原一郎さん(現金沢工業大学)と活動をはじめました。とりあえず、企業のOR導入の歴史を調べたり、取り組まれていたORプロジェクトについて調べ始めました。日本のORワーカーは専門家である前に企業人ですので、接触するのもデータを取るのも苦労しました。今でもそうですが、かなり徹底した秘密主義でした。特に特定のプロジェクトがうまく行ったのか、行かなかったのかの評価については口が堅かったのを覚えています。これには個人の出世が掛かっていたからです。成功、失敗と言う言葉はタブーでした。われわれの研究活動に馴染んで貰うために、“OR Square News Letter”(図1)を発行し関係企業部門に送りました。そのある号の巻頭言に「ORの出番はきているか?」という文章を書いたのを覚えています。私が言いたかったのは、諸条件が揃うまではORは舞台に上がっていって、派手な活動をすることは慎んだほうがよいのではないかと言うことでした。一生懸命やっている人たちに大変失礼なことは承知の上のことでした。私は「今」がORの出番だと思っています。このことについては後で説明します。

当時書いた報告書の写しも見つからず、記憶もあやしくなってしまいますが、会議では以下の点が議論されたと思います。経営者とORワーカーの認知スタイルの違いが原因で両者のコミュニケーションがうまく行かない:ミドルマネジャーがしっかりしていないとORプロジェクトはうまくゆかない:ORワーカーが取り組んでいる問題に含まれる人間要素、組織要素に関する洞察力がないとうまくゆかない:OR思想の社会全般への浸透度が未熟である限りはうまくゆかない:変化への抵抗と売り込みのうまさが成果に影響する:OR活動の組織への定着過程を研究し理解することが重要。参加者は多くの論文を書きました。さすが、ORの専門家だけあって定量的解析にこだわりました。どちらかと言えば、彼らは組織運営のあり方よりも、プロジェクトマネジメントのあり方に興味があったと記憶しています。

この研究過程で私にも日本での経験を踏まえた発言を求められました。私は日本的なIEとの比較と日本的経営風土を前提とした発言をしました。私の意見は、経営者と組織全体の合理的思考に対する受容性の高まりと一体性、および日常的活動の中からのデータの容易な入手性がないとOR活動は成功しないのではないか、と言ったことを覚えています。しかし、私の意見はあまりにも傍観者的であり過ぎたのか、多くの賛同は得られませんでした。つまり私は「OR出番説」を主張したわけです。ただしその時、私は今日のようにデータベースが発達する世界が実現するとは夢にも思っていませんでした。



図1研究会のニュースレター

3.管理技術出番説
私は経営の合理化のために採用する管理技術には望ましい順番があると思っています。売り物になる製品の設計が確立している工場の例で話します。まず最初に登場すべきなのは、QC(生き残るための品質管理技術の導入)です。まず、仕事のインプットとアウトプットを公式に定義しなければなりません。たとえ原価がいくら高くても、品質を確保すべきだと言うポリシーを確立すべきです。多くの企業では原価と品質がトレードオフだと考えています。原価のために品質維持を犠牲にすることがあります。昨今、検査時間が30秒でないとペイしないからと、必要な100秒を掛けない会社があります。品質第一、原価第二です。顧客満足を原価と比較してはいけません。 まず品質管理から手をつける利点は上記の至上命令のほかにあります。まず、品質向上のために、業務を改善して仕事のやり方を変更することに反対する人は居ません。これは皆のためになることだからです。したがって、改善改革問題に付き物の変化に対する抵抗が起こりづらいのです。それどころか、変化を受け入れる経験をします。品質管理の問題解決ではデータを取って、データで解析することが多く、参加者が数字に対する慣れを持ちます。数字で物事を語り、定量的な考え方に馴染みます。

次はIE(競争に勝つための原価低減技術の導入)です。まず、仕事の標準化を徹底的に行います。QCは閉鎖型(答えが一つ見つかれば終わり)問題の解決技法ですから、原因を突き止めればそこで終わりです。言わば犯人探しです。これを私は管理問題と呼びます。管理問題では与えられた設計、設備、材料、人など(現システムのデザインパラメター)を変えずに問題を定式化して、システム運用の妙で問題を解こうとします。それに対して、IEは開放型(答えが無数にある)問題の解決技法ですから、沢山の答えの中から試行錯誤で一番良い答えを見つけようとします。言わば宝探しです。これを私は改善問題と呼びます。IEの問題はまず一つの工程の問題から始まって、多工程の問題へ、全工場的な問題へ、と進むうちにレイアウトの問題、生産管理の問題、物流の問題へと変化してきます。さらに、設計との問題、営業との問題、など範囲が広がると、だんだん部門エゴの問題に出会います。制約条件を鵜呑みにせず、頭を柔軟にして分析する必要性が増してきます。

その次はSE(素早い正確な決断のための情報技術の導入)です。基礎データを取るインフラを作らなければなりません。データベースを作らなければなりません。言葉の定義を厳密にしなければなりません。コーデイングされたデータが正しく取られているかの確認も仕事です。情報の遅れや精度の悪さが仕事のロスが起こすようでは困ります。データベースの利用で、人はデータを使って仕事をすることを覚えます。紙や音声によるコミュニケーションから情報ネットワークの利用で効率を上げることに慣れます。

さー、いよいよOR(利益確保のための意思決定の標準化と複雑な問題へのリアルタイム処理技術)の出番です。なにをさておいても、必要な情報が情報ネットワークの中にあり、即時に利用可能な状況は、私のような古い人間には思いも付かなかったことです。情報が無ければORは無力です。しかも、その基礎としての仕事の標準化もできています。仕事の標準化ができていなければ意思決定モデルは作れません。1960年代の人間と今の人間とは仕事に対する態度もスキルも違います。それは合理的な仕事をするために前述した基礎的な準備ができているからです。

ところが、こんな便利な時代になって情報がふんだんにあっても、企業の中にはあるいは世の中全般には、複雑に絡み合う問題をうまく処理できなくて困っている管理者が沢山います。今彼らを助けるのはORワーカーの仕事です。個別にはマネジメントスタッフとして、一般的には利用しやすいソフトを開発することによって。

4.管理スタッフと現場の協力関係
一般に管理技術の採用過程において、現場(以下ラインと呼ぶ)とスタッフの問題解決への取り組み方の変遷にはパターンがあるように思はれます。 このことを1970年代に、OR、QC、IE、SEを対象にして、根本忠明さんと私が調べた結果では、次に示す4つの主要なタイプが認められました。
  • 革新導入型:ある特定の管理技術を導入し始めた段階です。その管理技術の重要性に気が付いた上位のマネジャー(多くの場合トップ・マネジメントで、以下パトロンと呼ぶ)のリーダーシップと庇護の下に、彼のスタッフあるいはその技術の重要性に気づいた専門家の集団による管理技術の導入が行われるケースです。改善案の実施は、パトロンの威光を利用した専門家によって強制される場合が多くあります。この段階では、その技術が新しいものであるために、その価値を客観的に評価できる人が組織内にいないことが多く、専門家集団はパトロンの力に頼ることになります。ラインの判断はもっぱら、それを推進する人間の信用度および人気に依存することになります。ラインがスタッフに協力するかどうかは、提案内容の実施結果から来る利害関係と組織内の力関係に依存します。

  • スタッフ主導型:ある特定の管理技術を適用したライン業務の改善が組織的に認知されてくると、スタッフにはそれなりの組織的地位が与えられます。それはその技術の名称を冠した係であったり、課であったりします。専門家集団としての活動は、スタッフがリーダーシップをとる形で行われます。ラインには必要な局面(データ収集や試行など)においてのみ改善活動に協力することが要求されます。スタッフは問題発見から改善案の作成まで責任を持ち、ラインはその改善案の採用の権限を持ちますが、時には一方的に採用の責任を負わされることもあります。しかし、両者の実質的な責任権限の区分は明確ではなく、あいまいであることが多くあります。アメリカのライン・スタッフ関係の多くはこのタイプにとどまっています。

  • チーム型:スタッフ主導型の欠点を補うために考え出されたタイプで、ライン業務の効率向上のための改善活動を、ラインとスタッフが協力し合って行う責任を持つケースです。多くの場合、プロジェクト・チームによって改善活動を行います。改善案の開発・実施のすべての過程において、スタッフとラインは協同責任を負います。チームの最高責任者はラインのマネージャーがなる場合が多く、QCサークルなどの小集団活動もこの分類に入ります。一見、自主的な活動に見えますが、多くの場合、スタッフが作った大きなフレームワークの中での自主性に限定されます。

  • ライン中心型:ラインのすべてのメンバーが自らの努力と責任によって改善活動を行い、結果に対する直接の責任はスタッフにはありません。そのための資源的・時間的余裕を持つことは、ラインの当然の権利となります。スタッフはラインからの要請のある場合のみ、必要な助言、助力または知識を提供します。スタッフの責任はラインに対して手法や道具の提供および教育・訓練を実施することです。そして、スタッフは時間的余裕を作って研究開発およびマネジメントから要請された問題の解決に専念します。改善がワン・ショット志向ではなく、オン・ゴーイングな形で行われることで、改善指向性が風土となります。

企業のラインとスタッフの改善活動の発展パターンを個別に見ていくと、さまざまな発展経路をたどっていくことがわかります。中には変遷の途中の段階でそれ以後の形態へ発展せず停滞したり、死滅してしまう場合も見られます。どんな新技術が入ってきても、最終的にはライン中心型になることが望ましいと考えますが、中間段階をスキップすることはリスキーです。理想形に至るまでには、ひととおり通らなければならない経路があるように思われます。もちろん、この遷移過程の存在することを塾知することは助けになります。



―図2 管理技術導入におけるライン・スタッフ協力形態の歴史的変遷 −

組織としてのORはスタッフ主導型まで進みましたが、その後が続かず、組織としてではなく専門家として組織の他部門に吸収されてしまったように思われます。組織として残ったグループの特色は、石油会社のLP、建設会社のPERT/CPMのような特定の技術が日常的な生産技術として定着した場合です。つまり、ORは組織としてではなく手法として、あるいは専門職として残ったわけです。

一方IEはこの遷移過程(図2)を順々にたどりながら組織的な成長を遂げてきたように思います。IEは継続的な改革と言う目的のためのマネジメント・スタッフですから、改善をし続けなければならないと言う強迫観念を持っています。その代わり、特定の手法を専門とするアイデンティティーは失ってしまいました。同じ領域を攻め続ければ改善の種はなくなってしまいます。前述したように改善対象の範囲は広がり続けています。このことが新しい手法の開発を要求します。手法は動作時間研究、マン・マシン分析、レイアウト分析、ジャスト・イン・タイム方式、カンバン管理、セル生産、リレー生産、何でも屋です。最近のIEにとっての極めて強い味方は、やはりコンピュータでした。昨今は便利なソフトが利用可能で、難しかったORや統計的手法も使えるようになっています。昔は難しかったシミュレーションも、PCを使って総当り法で答えが出ることすらあります。手法の民主化が起こった結果であると言えます。

6.おわりに
私はかつて文献(5)にORが企業内で受け入れられるための、プロジェクトの選び方、リーダーの選び方、マネジメントのサポートの有無に対処する方法などを提案しました。30年経った今でも私の主張は変わりません。ただ、OR活動が当時よりはるかにしやすくなっていることは確かです。改善改革活動を意識的にマネジする必要があり、それにはそれなりのノウハウがあります。この組織的側面を学問的に研究する必要があり、その成果を教育する必要があると信じます。皆さんはどう思われますか?それともう一つ。あのORとIEの確執はどうなったのかって?ORもIEも大人ですから、すぐに仲良くなって、They lived happily together ever after でした。

参考文献
(1) Churchman, C. W. and A. H. Shainblatt, “The Researcher and the Manager: A Dialectic of Implementation” Management Science, vol. 11, no. 4, 1965, pp. B69-B87
(2) Radnor, Michael and Rodney Neal, The Relationship between Formal Procedures for Pursueing OR/MS Activities and OR/MS success”,. Operations Research, vol.21, no. 2, 1973, pp.451-474
(3) Rubenstein, Albert H.,”Integration of Operations Research into Firms”, The Journal of Industrial Engineering, vol. 11, no. 5, 1960, pp. 421-428
(4) 川瀬武志・根本忠明“企業におけるORの分析”, OR辞典(日科技連), 1976,pp. 472-486
(5) 川瀬武志,“OR実践上の組織論的問題点”日本OR学会誌、1978, 11月号, pp. 692-696
(6) 川瀬武志、“IE問題の解決”、日刊工業新聞社、1995、第20章−第23章問題解決の組織的側面
(7) 川瀬武志, “IE技法の役割を再考する”, IEレビュー, vol. 46, no., 3, 2005, pp6-12

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