改善の管理は知恵遅れ
ー(改善活動の継続的な質の向上を達成するにはどうすればよいか)ー

2009年10月3日
川瀬武志

1. はじめに
これからお話することは、改善活動が超一流と呼ばれるような企業に当てはまる事ではありません。それ以下の大多数の企業の改善活動に当てはまることです。

2. 遅れの管理
1969年に私がコンサルティングの仕事を本格的に始めた当初、日本中の工場のIE活動の進むべき方向がはっきりしていませんでした。それどころか、はたしてIEなるものがどれだけ日本の産業界に役立つものかも定かではありませんでした。日本はまだ低賃金を売り物にしていた時代でした。従って、ものを安く作るより、外国から買ってもらえるような品質の高いものを作る必要がありました。当時、国を挙げて熱心に導入していた管理技術は品質管理でした。各社はデミング賞という品質管理上の最高の栄誉を勝ち取ろうとしていた時代です。
そのような当時、IEと言えば標準時間でした。それは標準時間という評価手段を用いて作業を測定し、作業者の作業努力を維持向上させて生産性を上げようとするもので、工数管理と呼ばれた仕組みが使われました。この仕組みの上で改善と言えば標準作業出来高を少なくとも100%に近づけ、できればそれ以上に引き上げることが改善でした。作業自体が統一された仕組みで管理されていなかったので、それに科学的な方法によってメスを入れようとしたのです。それ以前には、作業の負荷を科学的に測定しようとする考えが無かった我が国の産業界にとっては斬新なものでした。
この仕組みによる成果には上限がありました。無秩序状態から、管理された状態に至れば、その後は仕組みを維持するだけでした。しかも、この仕組みの最大の欠陥はすぐに現れました。全ては標準時間の精度に依存していましたから、その制度の維持のために、IEの専門家の時間の殆どをとってしまいました。その理由は、二つありました。ひとつはストップウオッチで測定された正味作業時間に作業努力(作業ペース)を評定するために時間が掛かると言う事でした。この時間の中には専門家の評定スキルを維持のための膨大な訓練時間が含まれていました。もうひとつは。正味作業以外の仕事の発生比率を算定することでした。それらは例えば、運搬、手待ち、検査、段取り、工具研磨、休息、材料の入れ替えなどで、作業進行を遅らせると言う意味で、「遅れ」(DELAY)と呼ばれていました。それらは発生には不確実性が高く、労働組合が納得する形で標準時間の中に組入れる方法を開発するために我々の先輩たちは苦労をしました。「遅れ」という言葉の裏には「結果として起こってしまう、厳密には管理できないもの」と言う意味が込められて おりました。この目的のためにワークサンプリング法が良く使われました。これは遅れを測定すると言う意味で、Ratio Delay Studyとも呼ばれました。
IEの専門家たちは、このように作業環境が標準化されていなかった当時、これらの付加的な時間を「余裕」という形で標準時間に含めようと努力しました。この「余裕時間」は最終的な合意という形で会社と組合の間で決められていましたが、大ざっぱなものであり、あくまでも合意された方針とでも言うものでした。つまり、「余裕」という言葉の意味には「この範囲で発生することを前提とする」と言う意味が込められていました。この余裕を具体的に標準時間に含めるためには、職場ごとにまた職種ごとに固有の発生率を測定しなければなりませんでした。それに加えて、無数の余裕率をデータベース上に維持管理しなければなら無いと言う問題が発生しました。
その後、1960年代になってから、間接労働の標準化や運搬の自動化や労働強度を下げるような機械化が進められたことによって、「余裕率」がだんだん安定してきました。一例を上げると、作業余裕(3.1%)、職場余裕(6.4%)、人的余裕(6.2%)、合計(15.7%)(出典:藤田彰久著"IEの基礎")といった具合でした。その後、余裕率を個別の作業ごとに測定したり、数表から算出したりすることの煩わしさから解放されるために、余裕率を一律にして(例えば)15%と決めて、実際の発生率が15%以下に納めるような努力がなされるようになりました。またコンベアー化された組立て作業においては一斉の休息やリリーフマンの導入などによって、余裕率ゼロとするという考えも生まれました。「余裕率」と言う言葉は「余裕をこの範囲に認めることを前提に、標準時間を設定せよ」と言う意味に変化しました。
1980年代になって、作業改善の頻度が増加してきて、標準時間設定のために時間を掛けることの意味が失われて来ると、簡単な方法で現場自身が標準時間の問題を処理できるようになりました。その結果として、標準時間の設定はIEの中心的な課題ではなくなりました。ただし、このことは改善が頻繁に行われていない国々においては当てはまりません。IEの専門家が標準時間の維持に仕事の多くを取られている国々では、改善のための貴重なスタッフの時間が失われてしまい、改善は思うようには進んでいない悪循環が起きています。言い換えれば、多くの国々例えばアメリカ、ではまだ工数管理がIE活動の主流なのです。

3. 改善活動停滞の改善
さて、何故私が上述のような古い話を持ち出したかと言うと、私は日本の産業界にもう一度昔の工数管理時代、遅れの撲滅時代に戻ろうと提案したいのです。気は確かです。
賢明な読者の方々はもうお分かりでしょう
私が提案したいのは、「改善活動だって作業じゃないか」と見ることです。日常の作業なら標準時間通りに終わらせるのは当然ですし、遅れが発生したならば原因を排除して同じ事が二度と起こらないように改善するでしょう。つまり、改善活動の速度を維持しようとするのではなく、改善活動の加速度を上げて維持しようと言っているのです。改善活動の範囲が工程内、工程間、工場内、物流と広がってきましたが、ごく最近になって多くの企業においては、改善結果へのニーズガ高まっている一方、改善活動に対する熱意と取り組みの態勢が衰えてきているように思えてなりません。一体その原因は何なのでしょうか。
日本の改善活動の停滞は、南北の壁の崩壊と共に起こりました。この世界的な政治体制の変革の結果、世界中の原価低減活動は生産拠点のチープ・レイバー・カウントリー(低賃金国)への移転へと一足飛びに移りました。当初我が国のIErは、低開発国何するものぞとの気概があり「低開発国での原価低減活動はうまく行くはずが無い」と失敗への期待を込めて考えていました。しかし、賃金格差の桁違いの大きさを目の前に押しつけられ、既存の作業システムをコピーすることの容易さを見せ付けられては、現実を認められざるを得ませんでした。多大な努力を要する改善活動よりも、低賃金国の労働力を利用する方の簡単さと効率の良さを見せつけられた、自前の改善活動の重要性を理解しない、経営者はついに方向感覚を失ってしまいました。細々と改善活動を続けていた本部のIEr達はだらしも意気地もなくして挫折感に暮れてしまいました。 このショックは未だに現場にはびこっており、低賃金国生産志向の改善ポリシーは一向に収まることはなく、結果として国内の改善活動を元気づけるどころか、賃金格差と改善努力を秤にかける余り、改善努力を削減する企業が増えています。改善の投資や改善担当者の人数を削減し、「結果を出せ結果を出せ」との掛け声だけが残りました。掛け声だけの現在の閉塞感から立ち直り、日本のもの作りを長期的な視点に立って、IE活動を再活性化するにはどうしたら良いかを考えてみたいと思います。結論から言えば、 改善活動を根本から見直して、活動の組織形態を改革し 思い切った投資をすること だと思います。多くの改善活動は成り行きで管理されてはいないでしょうか。私の知る多くの企業では改善活動が思うように進まなくても、危機意識は持っていません。海外生産とという逃げ道があるからです。その結果、改善活動の管理は月間スケジュールを作る程度で管理されています。そしてそれは、何かあるごとに遅れる方向に進みます。上層部の人間にしても、どうしても日常業務が重要で、改善はその上にエキストラの努力を要求しているという意識があります。現場にも改善活動はエキストラ活動だという考えがあります。改善は日本の産業界の命です。QCサークル活動に残業代を払うべきかどうかといった程度の議論でビビッテいる場合でしょうか。改善活動は立派な作業なのです。残業代を払うのは当たり前なのです。 これからのIE活動に「IE on IE」の思想を取り入れることを提案します。そして、改善活動を改善する運動を開始することを提案します。IE活動を思想的に、制度的に、組織的に、方法的に、システム的に作り替える事を提案します。私には現今の改善活動ははなはだ心もとなく見えます。企業間、国際間の競争が激しくなってきており、人件費の面では日本は大きなハンデを背負っております。今からでもすぐ出来ることは、改善活動そのものを、もっと厳しく管理すべきであると考えます。
読者の会社の中で、改善活動の効率を上げるための活動を意識的にしている会社がどれだけあるでしょうか。興味のある会社の方々に提案したいのです。ある期間内で完了した改善プロジェクトで、どれだけの遅れが発生したから調べてみると興味深いことに気が付くはずです。「遅れ」の例を上げれば、「良いアイデアが出るまで時間が掛かった」(知恵遅れ)、「アイデアを具体的な道具や設備に作り上げるまでに時間がかかった」(道具作り遅れ)、「道具や設備を他部門あるいは外部に発注して、出来るまで待った」(他人任せ遅れ)、「社内の他部門に承認を得るまで待った」あるいは「予算の承認が下りるまで時間が掛かった」(お役所仕事遅れ)、などです。改善の中には一刻を争うものがあるのに、「皆一生懸命やっているのだから待とう」と考えてしまう場合がないでしょうか。「皆一生懸命やっているのだから」では済まされない時代に差しかかっているのに、改善の管理には甘くなってはいないでしょうか。

4. 打つべき手
改善活動がマンネリに陥っている企業に共通な特徴は、IE活動をスタッフだけに任せていれば良いものではないことは理解しているが、現場の積極的関与を強制することにはためらいがあることです。改善活動はあくまでもエキストラ努力であるから、生産活動に差し障りが出るようでは困る、と言うのが典型的なコメントです。現場から出てくる典型的な「改善拒否」の言葉は「改善の重要性は良く理解しているが、このクソ忙しい時に改善のために割ける時間なんかはない」です。そうすると、経営者は「それもそうだ」と引っ込んでしまいます。改善活動を「動機づけ活動」程度にしか考えていない経営者が多いのです。
多くの企業で、目先のコスト提言のために、外注作業者を使っています。改善のレベルが低い企業では、身の回りの改善程度のことで外注作業者の協力が得られます。しかし、協力は積極的関与ではありません。改善のレベルが設備の改善や工程間にまたがる問題やシステムの改善などに及ぶと、外注作業者に割ける時間も能力もありません。改善活動のスピードが落ちるどころか止まってしまいます。そうだからと言って、現場を知らない社員に改善を任せても惨めなものになります。ここに問題があります。作業を外注すると言うのは1回限りの改善です。しかも、それをした瞬間に、改善のための現場の情報、知恵、やる気、努力を放棄することになります。外注企業に改善を望むことは本質的に無理なことです。一見うまく行っているような場合でも必ず無理があり限界があります。最近はそのことが法律問題になっています。その際、経営者から「だから改善は下請に頼らずにやろう」という考えは出てきません。「どうしたら法に反さずに下請さんに改善を進めさせられるか」程度の考えしか浮かんできません。
一般の企業には、改善の質の継続的な向上の必要性を真摯に受け止めて、それが進まない真の原因を突き止める態度がありません。問題はトップマネジメントにあります。以前のIEレビュー(241号、6〜12ページ)に、改善が進まない企業はトップマネジメントに責任がある。彼らの志(こころざし)が問題であって、IE担当者にはなんら責任はないと書きました。
このことを理論面から掘り下げてみましょう。私は自著「IE問題の解決」において、改善活動におけるラインとスタッフの関係は「スタッフ主導型」に始まって、「チーム型」を経過して「ライン中心型」に変遷すべきであると主張しました。その次には何が来るのかとの質問に対しては「ライン・スタッフ融合型」ではないかと答えてきました。昨今多くの企業において、真の改善には現場の主体性を大事にすることが欠かせない事は理解されるようになってきました。また、前掲著に、「ライン中心型」の改善活動が成功するためには「時間」、「お金」、「失敗の容認」の余裕が必要条件であると述べました。
しかし、先程来くどくど申し上げているように、現在我が国に求められている、より高度な改善をより急速に実現してゆくためには、「何か」が不足しているように思えるのです。それはより強い「強制力」ではなでしょうか。これまでの「作業一番」「改善二番」と言った
「エキストラ・サービス型改善活動」ではなく、
「全員責任型の改善活動」ではないでしょうか。
あらゆる従業員は、職務分掌に規定されている、与えられた仕事を達成することは当然の責任であると理解されています。私はこのことに加えて、あらゆる従業員は常々自分の仕事の効率を上げ続ける責任があると職務分掌に規定したいのです。実際に、改善活動結果を出し続けることに関する明確な責任規定を持っている企業を私は知りません。とにかく、改善は従業員の責任というほどのものではないことは確かです。日常業務に支障がない限りというスタンスが一般的な企業のものです。そのために、改善活動が幾ら遅れても問題になりません。せいぜい改善成果を良く上げている従業員は昇進が早いかもしれない程度です。私が主張するのは、従業員を採用する時に、「貴方を採用する条件は、通常の仕事と同様に仕事の改善を責任として働いていただく自覚を持つ」という事を明確にするということですです。だから私は
「改善は立派な作業だ]
と主張したわけです。繰り返しますが、その意味は全従業員が自分の職務の遂行と同様にその改善を絶え間無く遂行する責任をも持つことです。このことは、各従業員は改善作業を実行するための日程と作業時間、及び必要予算を与えられることを意味します。会社は従業員一人一人が改善能力を身につけ維持するための教育訓練投資をする責任を持ちます。当然改善のための時間を堂々と取ろうという訳です。改善のための標準時間を作り、改善活動の改善のための手段としようと言うのです。昔作業に標準時間と言う概念がなかった時には、現場の職人さんに任せていたのと同じです。当然反復作業の管理で使われる標準時間とは違ったものになるでしょう。しかし、昔は反復作業も内在する不確実性に悩まされ、「遅れ」を退治しながら今日に至っているのです。速度を管理するのでは無く、加速度を管理しようと言う考えなのです。
この考えでは、下請作業者に対する考え方も変えなければ成りません。下請に対する改善活動への参加要求は実にあいまいな態度で、半分脅しともとれるような接し方をするのを見かけます。本質的に利害が反する間柄で、なんらかの明確で公平な約束事をしない限り、彼らに改善を期待するのは賛成できません。これをしない限り、質の高い改善結果を期待できません。下請のサークル活動による改善活動は狭い範囲の改善であって、設備を改造するようなレベルの改善は一般には出てきません。レベルの高い改善には当然リスクを伴います。つまり、私は高度な改善活動を実行するためには、自前の社員による改善努力が必要だと考えます。下請企業に改善が期待できるのは狭い範囲の作業に限られると覚悟するべきです。下請を改善に活用する事には、大きな欠点があります。改善のために現場の詳細な実態を知るべきことは必須条件です。しかし現場の詳細な実態を知っているのは下請の人々です。設備の改善はもちろんのこと、設備の開発のためにも現場の知恵は不可欠です。
多くの企業にとってこの私の提案は全くナンセンスであると思われるかも知れませんが、私が提案する状況での下請作業に向いている仕事は、監視業務、設備保全業務などの明確に業務内容が規定されうるものになるでしょう。下請にどのような懐柔策を取っても、改善は下請にとっては下請の利益に反する行為です。法律ができるのも当然のことです。このことに目覚めていないトップマネジメントが意外に多いのです。 私の考えの根本的哲学は、(1)工場に雇われたも者の責任はもの作りが車輪の片輪(例えば85%)で、後の片輪(15%)は改善であると認識すること。(2)改善は現場のお情けでやってもらうものではなく、現場の責任でやるべきものである。(3)そのために採用と教育訓練には充分な投資をすること、(4)スタッフの仕事は改善の手伝いのみが主ではなく、改善の改善が主である。(5)改善活動を月割日程表で管理するのではなく、プロジェクトマネジメントのネットワークチャートを持ち込む。(6)活動の中で発生する「遅れ」の研究をし、改善活動の改善を進める。以上6項目を実行することによって、改善活動のマネジメントシステムを生み出すことができます。

5. 結 び
世を挙げて環境だ資源だと新しい問題解決が発生していますが、これらも改善活動の一部であると見なせます。改善活動のマネジメントの仕組みを見直す必要があります。日本の産業界はこれまでの改善活動の成果に満足しきっているのでしょうか。読者はこれ以上どうしろと言うのかと考えているのかもしれません。もしもそうだとしたら、その原因は何でしょうか。突き詰めれば、最大の原因はライバルがいないからではないでしょうか。日本よりも高度な改善活動をどんどん進めて行く国がないからでしょう。そうなってからでは遅いと思いませんか。皆さんはどう思いますか。


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